D・D・パーマー(Daniel David Palmer 1845-1913)

ヒポクラテスHippocrates, B.C.460B.C.375ころ)は「医学の祖」といわれ、医術を迷信から切り離し、経験科学としての医学を発展させ、職業としての医師を確立させるなど、医学の発展に大きな貢献を果たしました。「人間は誰でも体の中に百人の名医を持ってる」と唱え、「自然が病を癒す、つまり人体に生まれつき備わっている仕組みが崩れると自動的に自然の力で回復しようと働く」 この自然治癒力を大いに強調した。

 

ヒポクラテスの教え子であったゲーレンがローマにおいて右腕のしびれが

酷い患者の治療に当り、その患者が頚椎の神経によって、指が刺激を受けて

しびれていることに気づき、その場所をみつけて頚椎のアジャストを行っ た。

これが世界最初の手技による骨矯正であったといわれている。

 

 

しかし、その治療効果は多くの人に認められながらも、技術のメカニズムを

説明することができなかった為に、正統医学としては認められず、近代医療の

世界からは常に異端視扱いを受けてきました。

 

その一つのオステオパシー(整骨療法)は、バージニア州の田舎医師であった

A・T・スティルが創始者といわれ、1892年に はミズーリ州カークスビルに

学校を設立し、カリフォルニアにオステオパシー大学を持つまでに発展した

のですが1961年には医科大学に吸収され、免許交付さえ禁止されて

しまいました。

 

そしてオステオパシーとほぼ同時期に、アイオワ州に徒手治療の

第二の学校が出現していました。ダニエル・デ ヴィッド・パーマーによる

カイロプラクティックのパーマー大学でした。カイロプラクティックの創世は

D・D・パーマーが病気に共通する原因とその治療法を発見した時に始まります。

 

D・D・パーマーは184537日、カナダのオンタリオ州ポートペリー(Portperry)に

生まれました。彼は20歳の時に、生まれ故郷を出てア メリカに移住しました。

イリノイ州ニューボストンに居をかまえました。

 

パーマーは、ある一つのテーマに没頭していきます。

 

「同じ親から産まれ同じ食物を食べ、なぜひとりは強く、ひとりは常に病弱なのか」

 

「同じ身体 で、なぜある臓器は弱く、ほかは正常なのか」 など

 

そして、独立した思想家として「イネイト(INNATE)」(内なる自然の力)

自然治癒力により、薬を使わない病気の治療の方法を発展させていきました。

 

内臓のどこかが悪いかもしれないという時に、全身に投薬を試みる医学界の

短所にパーマーは異議を唱え始めたのです。

 

そして、脊柱の異常あるいは不整列を前提として、それが人間の神経組織に

悪影響を及ぼし、病気を起こす(サブラクセーション))という

「背骨の異常と病 気との関係」を理論的に考察していきました。

 

1885年、パーマーは「イネイト治療」の理念を追究するために

アイオワ州ダベンポート(Davenport)に引っ越し、セカンド&ブラディストリートの

一角にあるライアンビルディングの4階にオフィスを開業しました。

 

パーマーは病気を治すのが天職であると悟り、病気の背後には共通する

一つの原因があると考え、寝食を忘れてそれを探究する生活が続いたのです。

 

既存医療と医薬品の氾濫するこの世界の中で、それは医学界の分岐点でも

ありました。しかし、パーマーが発見したカイロプラクティックという

ものが発展するためには、さらに長い年月を必要としたのです。

 

パーマーの治療室のあったビルには、17年間も耳が聞こえない

ハーヴィーリ ラードという守衛がいました。ビルの前を通る幌馬車が

レンガ道を騒がしく通りすぎる音さえ聞こえないくらいの状態でした。

 

パーマーはハーヴィーに、耳が聞 こえなくなった時の事を尋ねて

その時の状況に興味を持ちました。

 

ハーヴィーは17年前のある日、窮屈な姿勢に身体を曲げて作業をしていた時

背中に「ボ キッ」という音が聞こえ、それ以来、聴力を失ってしまったそうです。
 

1895年9月18日のことでした。D・D・パーマーはリラードの脊柱を検査

している時に、脊柱の不整列の兆候である「こぶ(隆起)」を発見したのです。

これが、パーマーの用語でいう「サブラクセーション」でした。

 

パーマーは自叙伝にその時のことを

「私は、もしその椎骨がもとの位置に戻れば、聴力が回復するのではないかと

考えた。その目的を果たすために30分間話し合って、椎骨をもとの位置に

戻すことをリラード氏に承諾させた」と記しています。

 

パーマーは診察台の上にリラードををうつぶせに寝かせ、脊柱の

不整列を正そうと、両手でその椎骨にスラストを加えたのです。

これがカイロプラクティックの最初のアジャストメントでした。

 

そしてその瞬間、17年間聞こえなかったハーヴィーリラードの

聴力が、急に回復したのです。

 

それはカイロプラクティックが誕生した瞬間でした。

D.D.パーマーによるファースト・アジャストメント

1895 年9月18日、ダぺンポートのD・D・パーマーのオフィスで行われた最初のアジャストメントを描いたこの絵は、カイロプラクターの間で広く頒布されてい る。カイロ治療で救われた四肢の不自由な患者が、カイロプラクティックへの感謝を込めて、足で描いたと伝えられる伝説の絵です。

 

 

カイロプラクティックは

カナダ生まれの米国人、DDパーマー(ダニエル・デービッド・パーマー)に

よって1895年(明治28年)によって創始された徒手療法および職業です。

 

彼が設立したアイオワ州ダベンポートにある

パーマー・スクール・オブ・カイロプラクティックを卒業した川口三郎

(かわぐち さぶろう)によって、1916年(大正5年)に日本へ伝えられました。

 

日本人最初のカイロプラクターは1907年に

パーマースクールを卒業した森久保繁太郎(もりくぼ しげたろう)ですが

彼は卒後、米国で生涯を過ごしました。戦前アメリカに留学して帰国した

カイロプラクターは10名ほどいました

 

しかし、戦争のため留学生や海外の情報も途絶え、

1969年に戦後初のカイロプラクター、竹谷内一愿(たけやち かずよし)が

ナショナル・カレッジ・オブ・カイロプラクティックを卒業し帰国しました。

 

その後、多くの日本人がアメリカなど海外でカイロプラクティックを学び

 帰国し日本へ、その理論と技術を伝えました。

私の父もその中の1人でした。

 

1980年代後半に、偽カイロによる事故が発生し有罪判決となり、カイロを

危険視するマスコミ報道が増えました。

 

カイロプラクティック誕生百周年の1995年にカイロ教育審議会(CCE)の認可する

カイロ大学と同様な国際教育基準を導入した日本初のカイロプラクティック

教育機関であるRMIT大学カイロプラクティック学科日本校

(現在の東京カレッジ・オブ・カイロプラクティック)が誕生しました。

 

現在では日本語で、アメリカや海外で行われている

国際基準のカイロプラクティック教育が学べる環境が整っています。

世界基準のカイロは短期で習熟できたり、開業することはできません。
私は、先駆者である父から技術を継承するのに、数年間かかりました。

 

米国では、D.C. (ドクター・オブ・カイロプラクティック)の学位を取得する

ためには4年制大学にて90単位を取得したのち、 カイロプラクティックの

4年制以上の専門大学で4200時間以上の修業が必要です。

更に、ナショナルボードと言われる国家試験にすべて合格し、自分が

開業を希望する州の医療法律試験、レントゲン撮影技術者試験に合格して

晴れて、カイロプラクティックの開業資格を得ることが出来るのです。

 

日本では憲法22条で「職業選択の自由」を認めています。

しかし、カイロプラクティックの法制化が進んでいません。

2時間研修し、翌日に「カイロ」の看板を上げて開業できる環境とは

大きな隔たりがあり、名ばかりの「カイロ」が多い事も否めません。

 

 


カイロプラクティックの歴史

1895

米国アイオワ州ダベンポートでDDパーマーによりカイロプラクティック

創始される

1897

最初のカイロプラクティック教育機関、パーマースクール開校

1905

米国ミネソタ州で初のカイロプラクティック法制化

1907

森久保繁太郎、日本人初のカイロプラクターとなるが米国で生涯を過ごす

1916

川口三郎、帰国してカイロプラクティックを日本に始めて紹介する

1923

アルバータ州でカナダ初カイロプラクティック法制化

1933

FCLB の元となるカイロプラクティック州免許委員会が設立

1939

スイス・チューリッヒ地方で、北アメリカ以外で初の法制化

1944

奨学金や研究に関わるFCERの設立

1963

州試験の統一性を図るためNBCE(ナショナルボード)設立

1969

戦後初の日本人カイロプラクター、竹谷内一愿が帰国する

1974

CCEが政府に認可されカナダ、ヨーロッパ、太平洋州に広がる

1979

ニュージーランド政府がカイロの有効性を認める報告書作成

1987

ウィルク裁判で米国医師会が敗訴、カイロプラクターの勝利

1988

80ヶ国以上が加盟するWFC(世界カイロプラクティック連合)設立

1995

カイロ生誕100周年記念が全米各地で開催される

1995

日本初の国際基準教育機関、RMIT大学日本校開校

1997

WHO(世界保健機関)のNGOWFCが正式加盟

1999

JAC(日本カイロプラクターズ協会)がWFC日本代表団体として加盟

2005

RMIT大学日本校、日本およびアジア地域初のCCE認可校となる

2005

WHOによるカイロプラクティック・ガイドライン完成

2006

WHOのガイドラインの日本語版完成

2006

日本で二番目の国際基準教育機関、マードック大学インターナショナル開校(2010年閉校)

2008

WHO伝統医療学会ヘルスケアの手技療法シンポジウムが北京で開催

2009

RMIT大学日本校が東京カレッジ・オブ・カイロプラクティック

名称変更

2011

日本初のカイロプラクティック統一試験がJCRIBCEにより開催

2012

東京カレッジ・オブ・カイロプラクティックがCCEAより認可を取得する

2013

国民生活センターからの依頼による安全性と広告に関する

ガイドライン完成

 

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